表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > 博覧弱記(最新号 令和7年3月)
私は他人より広く旅をし、多く読み、色々なものを食べたと思います。しかし、振り返ってみると、記憶に残っているものは、旅行にしろ、読書にしろ、食事にしろ、そんなに多くありません。
ウズベキスタンのサマルカンドは、英雄ティムールの作った町として有名です。多くのモスクや廟が残っています。感心して見物をしましたが、モスクや廟の名前は思い出せません。いつ頃の建物かも覚えていません。建物の特徴を言えと言われても困ります。
近代インド文学の最初の金字塔といわれる「ゴーダーン」は、貧乏な農民が、一生のうちに一度は牛供養をしたいと頑張る物語です。しかし今となっては、牛供養とはどういうものだったのか、彼が願望を成就したのか覚えていないのです。
南米のペルーで、たいへんおいしい食事をしたことがあります。しかし、どの町だったのか、なんという名前の店だったのか、何を食べたのか、全然思い出せません。私は子供のころ、体が弱く、よく入院していました。当時の日本は本当に貧しくて、病院の食事はまずいものと決まっていました。母親にねだって、小遣いをもらい、夜になると蕎麦屋に出前を頼んだものです。ところが、今になって何がまずかったのかどうしても思い出せません。
博覧強記という言葉があります。世の中のことを広く学んで、それをよく覚えていることです。私はかなりの博覧だと思っています。しかし強記ではありません。そこで自分を博覧弱記と笑っています。
お経には博覧強記と似た言葉で多聞強識という言葉が出てきます。仏様の教えを沢山聞いて、仏の教えをよく憶え、よく理解する人のことです。こちらも私は怪しいものです。お経もかなり読みましたが、どのお経にどんな言葉があったかと聞かれると、しどろもどろになってしまいます。
昔、旅行先でキリスト教の坊さん二人と一緒になったことがあります。お茶のあと、彼らはゲームを始めました。一人が暗記していた聖書の一節を声に出すと、相手はそれが聖書のどこにあるかを当てる遊びです。多分、有名な下りなのでしょうが、かなりの確率で当てていたのに驚きました。
私には苦手なゲームです。子供のころ百人一首を遊んだことがあります。百首ある和歌の札をバラバラにして、それを読み手が朗々と読み始めると、下の句が書いてある札を素早く取り合う遊びです。和歌を記憶できないのです。なんだ女の遊びだと、すぐ仲間外れになりました。
私は読むことは好きでしたが、読みっぱなしで、内容や大切な一節を記憶する努力はしませんでした。今考えると随分無駄な読書だったなと思います。
記憶力は、生まれつきの能力でしょう。しかし、努力をすればそれを補うことが出来そうです。実際、記憶力薄弱な私でも、日常必要なお経は暗記できています。
年寄は今日のことは忘れるが昔のことはよく覚えているといわれます。その昔のことをよく思い出せない自分を歯がゆく思っています。
石川恒彦