表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > ウズベキスタン 2(平成27年7月)
成田からウズベキスタンの首都タシケントまでは、9時間半の飛行でした。
朝10時に出発し、4時間の時差がありますので、3時半に着きました。東シナ海を渡り、北京の近郊を通り、タクラマカン砂漠を横断しました。昼間でしたので、雲の切れ目から、地上の様子がよく見えました。
雪を頂く山、赤い山、黒い山、砂漠。緑があるのは、ごく一部です。
中国と中央アジアを結ぶ道は、主に三つあります。天山の北を走る天山北路、天山の南を走る天山南路(これは西域北道とも呼ばれます)、天山南路とタクラマカン砂漠やタリム盆地を挟んで、崑崙山脈やアルディン山脈のふもとを走る西域南道です。いずれも大山脈からの水に頼るオアシス都市を結んでいます。
近代になって、シルクロード、絹の道と呼ばれるようになりました。
昔、天山南路を鉄道とバスで移動したことがあります。その時も、凄まじい景色に驚きましたが、点と線の経験でした。空からは全面が見えました。
飛行機の中で椅子に座り酒を飲みながら地上の暑さにも市場の喧騒にも無関係に外を見ているのですが、その荒涼たる景色は何とも言えないものでした。広大な砂漠の中では、町など、ほんのシミでした。
細い線は、鉄道か道路でしょうか、見渡す限り何もないところを走っています。突然、昔、この地を往来した僧侶たちのことが頭に浮かびました。
中国の西域は、中国の王朝の盛衰と深くかかわっていました。中国の王朝の勢いが弱ると、遊牧民族が侵入してきました。王朝が盛んとなると、逆に漢民族が西域に進出して、植民都市を作りました。
平和な時には、通商が盛んになりました。交通は危険極まりないものでしたが、危険を克服した商人たちには、巨万の富が望めました。
商人たちに交じって、僧侶たちも絹の道を旅行していました。初めは、西から東へ、仏教を広めようとしてインド人や中央アジア人が中国にやってきました。仏教に触れた中国人は、もっと仏教を知ろうとインドへの道を往復しました。いかに困難な旅だったか、空から見ると明確に分かりました。僧侶たちは、富のためではなく、真理のために苦しい旅をしたのでした。そのお陰で私達日本人も仏教を知ることができました。飛行機に乗って遺跡を見に行く旅をする私は自分の怠惰を恥ました。
砂漠が尽き、名も知らぬ高原を越えると、ウズベキスタンの首都タシケントでした。中央アジアは、文明の交差点と言われ、古代から、いろいろな民族、いろいろな文明、いろいろな宗教が交代してきました。
ウズベキスタンでもかって仏教が繁栄しました。しかし、今では、何ヵ所かの遺跡、また、博物館にある仏像のほか、仏教を思わせるものはありません。住民の大部分は、戒律の緩い穏健なイスラム教徒です。
主要な都市のひとつ、ブハラという町の名が、仏教僧院を意味するビハーラから来たという話もありますが、想像にすぎないようです。
タシケントは1966年に直下型の地震に襲われ、ほぼ壊滅しました。ウズベキスタンは1991年まで、ソビエトの一部でしたので、ソビエト政府により近代都市として復興されました。広いまっすぐな道はオアシス都市の面影もありません。
地下鉄もその時、建設が始まり、1977年に最初の路線が開通しました。物は試しと、地下鉄に乗って見ました。広いホームの高い天井が印象的でした。やってきた電車は古い形のものでした。車内に足を入れると、間髪をいれず、二人の若者が私たち夫婦に席を譲ってくれました。周りを見ると年寄りで立っている人は誰もいません。
翻って、日本では、席を譲られたことはほとんどありません。日本の若者は何か無気力のように思えます。砂漠を渡った求法僧には比べるもなく、お釈迦さまの「怠ることなかれ」の教えは、今や、彼ら、いや、私にも遠くなっているのでしょうか。
石川恒彦