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表紙妙見堂チャンギー殉難者慰霊塔 > 田中(本隆)日淳上人

田中(本隆)日淳上人 大正3年3月ご生誕からご逝去までの97年間の人生の軌跡と功績をご紹介いたします。
学生将校教誨師教諭執事慰霊碑貫首隠居平成22年逝去

生前に書かれたご著書のご案内もございます。

田中(本隆)日淳上人

学生

学生時代 上人は、大正3年3月17日、北海道江差の近く、現在の乙部町元和で生まれました。父親は漁師でした。母親は大変信仰深い方で、その願いで、小学校2年の時、近くの本昭寺浅野本淳師に預けられました。やがて、浅野師より本隆の僧名を授けられ、得度しました。
昭和4年、15歳、上京して、池上本門寺に入りました。修行のかたわら池上学林に学び、やがて立正大学の仏教学部に進みました。当時、本門寺の修行僧は、大学に通えませんでしたので、塔頭の照栄院に移り、大学に通いました。照栄院住職の石川日教上人は、その時、池上本門寺の監督でした。日教上人は、乙部の浅野上人の願いを入れて、田中上人を自分の弟子としました。

将校

将校時代 昭和15年、大学を卒業して、一時、故郷に帰っている時、召集令状を受け、旭川の26連隊に入営しました。間もなく、満州の最前線、二人班に配属され、ここで、幹部候補生に選ばれて、昭和16年9月、仙台の予備士官学校に入学しました。12月8日、対米戦争がはじまりました。17年3月に卒業して、見習士官となると、航空兵に転科を命ぜられ、兵庫県の加古川で訓練のち、シンガポールにあった、第三航空軍司令部勤務となりました。

教誨師

教誨師時代 終戦をシンガポールで迎えました。部下の復員に奔走している時、司令部に要請され、チャンギー刑務所の教誨師となりました。ここで、BC級戦争犯罪人として処刑されようとしていた日本軍の将兵軍属の最期をみとりました。この時、英軍により焼却処分にされそうになった遺書を命懸けで持ち出し、帰国後、遺族に渡すことができました。

教諭

教諭時代 昭和22年9月、日本に帰り、照栄院の住職となりました。同時に立正学園女子高等学校英語科の教諭となりました。





執事

執事時代 昭和28年、師匠の石川日教上人が池上本門寺貫首になり、田中上人は、学園を辞して、池上本門寺の執事となりました。以来、戦争ですっかり伽藍を失った、池上本門寺の復興に取り組むことになりました。現在の本門寺は、様々な伽藍の立ち並ぶ堂々たる大本山ですが、そのどの建物も、田中上人が建設に関係しなかったものは無いといわれます。また、肝心の、布教活動のための組織や運営にも主導的な役割を果たしました。

慰霊碑

慰霊碑BC級戦犯の遺族や関係者が訪ねてくると、どんなに忙しい時でも、時間を割いて、面会し、いろいろな相談に乗りました。特に、韓国籍、朝鮮籍の戦犯は、日本政府からも、母国の政府からもないがしろにされましたので、その救済に心を砕きました。慰霊碑を作ったのは、昭和58年です。BC級戦犯として服役し、社会に戻ってきた方々を中心に、遺族の方たちとも相談して、妙見堂の境内に建立しました。

貫首

貫首時代昭和63年、池上本門寺の第81代貫首に推されました。この時、古例にならい、日淳と改名しました。平成7年には、第48代日蓮宗管長となりました。




隠居

隠居 平成11年、体調が万全でないことを感じて、両職を退きました。重要文化財の五重塔の解体修理と霊宝殿の建設が進捗中でした。







近況 照栄院の境内に向林庵を営み、来客のない時は読書専一の生活となりました。平成18年の初めより、車椅子の生活となりましたが、頭脳はいたって明晰で、後進の相談に的確な答えを最後まで与えていました。





平成22年逝去

平成22年7月18日、向林庵にて逝去しました。数えて97歳でした

著書のご案内

法華経を生きる(春秋社)
法華経講話二巻(水書房)
BC級戦犯60年目の遺書(共著、アスコム)
著書