表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > 沈黙(平成29年3月)
キリシタン禁制時代のキリスト教徒が大変な迫害を受けたことはよく知られています。その日本に潜入した司祭たちを描いた映画「沈黙」を見ました。
主題は二つあったように思いました。
一つは、神を心から信じている人たちが、なんでこんなにひどい迫害を受けなければならないのか。神は、なぜ黙っているのかという疑問です。神父は、拷問されたり、処刑されようとするキリスト教徒を見せられ、神父が棄教すれば、この者たちの命が助かると迫られます。彼らのために棄教するのが正しいのか、それとも信仰を持ち続けるほうが正しいのか、宣教師は悩みますが、神は何も答えてくれません。映画も答えを出しませんでした。
もう一つは、なぜ日本にキリスト教が根付かないのかという疑問です。映画では、日本という国が、沼沢地のようなもので、素晴らしい教えであるキリスト教の根を腐らせてしまうのだ、何十万人もの信徒を獲得できた時でも、彼らは、神の本当の意味を理解していなかったと、棄教した宣教師に語らせます。
しかし、江戸幕府による禁教は、優れて政治的な出来事でした。宗教の社会と政治に及ぼす力への恐れがキリシタン弾圧に繋がったのだと思います。16世紀半ばの京都の法華一揆に始まり、それを退治した比叡山の横暴、そして一向一揆など、諸国統一を目指す大名にとって、信仰集団の団結は脅威でした。ましてや、日本になじみのない異教の発展は、幕府による日本統一に最も危険なものと映ったでしょう。信徒が退転したのは、間違いなく幕府による禁止のせいです。
それではなぜ、日本の風土のせいに映画はしたのでしょうか。答えは、キチジロウにあると思いました。キチジロウは、踏み絵を踏んだ漁師で、漂流しているところを助けられ、マカオに連れてこられました。自暴自棄の生活をしていましたが、宣教師たちが日本にいくについて、マカオにいるただ一人の日本人だったので、道案内をすることになりました。彼は見事、潜伏キリシタンの村に宣教師たちを連れて行き、自らも悔い改めて、再びキリシタンになりました。しかし、村の手入れがあって、踏み絵を強要されると、あっさり踏んでしまいます。何度か繰り返し、そのたびに悔い改めます。最後には、すこしのお金のために宣教師を密告してしまいます。それでも、牢屋にいる宣教師を訪ねて、助けを求めます。
私は、キチジロウは、原作者遠藤周作の懊悩の象徴だと思いました。子供のころに洗礼を受け、生涯をキリスト教徒として生きた遠藤は、神を信じない日本人の間にあって、息苦しさを感じたのではないでしょうか。さらに、信徒仲間でも、惰性で信じたふりをしている人を見つけたのかもしれません。そういう環境の中で、心の奥底で、キチジロウを演じたこともあったのではないでしょうか。
見つけたキリシタンを残酷に処罰し、宣教師を奸計によって貶める奉行も、極悪人としては描かれていません。遠藤のまわりにいる、神を信じない人々も悪い人でも不幸な人でもありません。なぜ全知全能の愛の神が彼らをキリスト教徒にさせられないのか、遠藤は、それを風土のせいにするしか、自分を納得させられなかったのでしょう。
石川恒彦