表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > オホーツク文化(平成23年2月)
急に思いついて、網走に流氷見物に行ってきました。空港からまっすぐ網走港に行き、船に乗りました。
港を出て、帽子岩を越えると、一面の流氷で、船はその中に突き進んで行きました。
今年の流氷は、いつもの年より早めにやってきましたそうですが、まだ十分には厚くは無いようで、ガリガリと音を立てて進むという感じはしませんでした。
それでも甲板に出て、厚い雲の下、強い北風を感じながら、一面の流氷を見ると、何か凄まじい気持ちになりました。
船の旅は一時間ほどで終わりました。冬の網走では野外の活動は限られています。私たちは博物館巡りをすることにしました。
オホーツク文化と言う言葉に注意を引かれました。何かで読んだことのある、かすかな記憶のある言葉でしたが、言葉だけで、どんなものかは知りませんでした。平安時代から鎌倉時代にかけて、北海道では擦文土器を持つ文化が栄えていました。おそらくアイヌがその担い手でした。それとは別に、オホーツク海をめぐる、千島、樺太、そして北海道のオホーツク沿岸に、特異な土器を持つ文化があったというのです。それがオホーツク文化です。
あくる日、典型的なオホーツク文化の地、モヨロ貝塚を訪ねる事にしました。タクシーの運転手は、貝塚は雪に埋もれていて、行っても無駄だといいます。
それでも展示館(モヨロ貝塚館)があるようだから連れて行ってくれと頼みました。
展示館はごく小さな建物でした。管理人が一人いるだけで、暇そうでした。地下が展示場で、一部は本物の貝塚の断面のようでした。そこに出土品が並べられています。
貝塚は長い歴史があるようで、オホーツク文化の土器だけではなく、続縄文土器や擦文土器も出土しています。
目に付いたのは、お墓でした。仰向けに寝かせ、手足を曲げて、頭には壺がかぶせてありました。
説明によるとオホーツク文化では、土葬のほかに火葬も行われていたといいます。
モロヨ貝塚は、住居部分と貝塚部分に分かれていますが、お墓は貝塚の中に作られたようです。
どんな宗教文化を持っていたのでしょう。冬は流氷に覆われるオホーツク海をめぐり、独特の文化を築いた人々の由来はわかりません。また、いつどのように消えていったのかも分かっていません。
外に出ると、展示館の向かいに、雪に埋もれたモロヨ遺跡がありました。
復元された竪穴住居はのぞいてもいいというので、のぞいてみました。中は暗くて見えませんでした。
一帯は雪で真白ですが、大きく窪んだ所がたくさんあります。竪穴住居跡です。直径10mはあるようでした。
ここは網走川の河口に近く、貝や、魚をとるのに絶好な場所だったのでしょう。
何百年にもわたり、いろいろな文化を持つ沢山の人が住み続けていたことが、貝塚の発掘調査で分かっています。
発掘調査の先鞭をつけたのが、米村喜男衛さんです。青森県の出身、子供のころから考古学に興味を持っていましたが、貧しい家に生まれましたので進学できませんでした。床屋の技術を習得して、東京に出ました。
考古学への興味を持ち続け、雑誌や本を読んで知識を集積し、やがて大学の先生の知遇も得るようになりました。
アイヌの歴史にひかれ、大正の初め、函館で理髪店を開業しました。
二年ほどして、網走を訪れ、モヨロ貝塚に向かいました。土器を見つけると、それが今まで知られている土器とは違うものだとすぐに気付きました。オホーツク文化の発見です。
米村氏は、網走に移り、理髪店を営む傍ら、発掘調査に打ち込み、数々の発見をしました。
モヨロ貝塚は、昭和11年には国の遺跡に指定されました。
モヨロ貝塚人が、異民族に殲滅されたという証拠は文献的にも遺物的にもありません。
彼らは北方に去っていったのでしょうか。あるいは南下して、アイヌや和人と混血したのでしょうか。
石川恒彦