表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > 広場(平成22年7月)
サッカーのワールドカップ南アフリカ大会、日本は予想外の活躍でした。
日本の躍進は、組織と作戦そして、チームが勝つために惜しまなかった個人の犠牲と献身だったといわれます。日本のサッカー界が長年努力してきた、ジュニアからプロに至るまでの育成システムがうまく働いた結果でもあります。
しかし、もう一段階段を上り、決勝戦に行けるようにするには、選手個人の能力をもう少し上げねばならないのは明らかです。
勝負はさておき、個人の能力では、日本選手に勝る外国選手が沢山いたのは、素人目にも明らかでした。足に球がからみついたようなドリブル、後ろに目があるようなバックパス、強力なシュート。
そして、強靭な体力。
この違いはどこから生まれるのでしょう。生来の能力を言う人もいます。
たしかにそれもあるかもしれません。しかしそれ以上に重要なのは、子供が球に触れる機会の多少にあるのではないでしょうか。
人口の大部分が都会に住むようになりました。その都市には、子供たちが駆けまわれる空間がほとんどありません。空き地があれば駐車場です。かっての路地も車の通り道です。
寺社の庭も学校の庭も、管理の都合が先行して子供の空間ではありません。球と戯れながら登下校する事も出来ません。
以前の都会の空間は連続していました。茶の間から縁側、小さな庭から路地、人びとは自由に行き来し、子供も遊んでいました。しかし最近では、空間は断絶するようになりました。家は家、道は道、個室は個室、そこには連続性がありません。その中で吹き飛ばされてしまったのが、共通の空間です。人びとが自由に出入りできる空間です。子供たちにとっては、好きに飛び跳ね駆け、球を蹴り投げ打つことができる空間です。
都会にはそういう広場が必要だと思います。
現在子供がサッカーに親しめるのは、たまたま偶然が重なって、街のクラブに入れたり、小学校の先生が
サッカー好きで、学校にクラブがあったりしたときだけです。球と遊ぶのは、たいていクラブの時間だけになってしまいます。それも、指導者の示すメニューに従って体を動かすのが主になります。
勝手にドリブルの練習だけをしているわけにはいきません。サッカーに限りません。
野球にしろ相撲にしろ、同じようなものです。小学校に入る以前に、もっと思い切って体を動かす機会が必要だと思います。いろんな体験を積んで、自分の才能を発見することが大切です。
必要なのは、思い切り遊べる空間、広場です。公営の遊び場や、団地の公園は確かにあります。しかし、それらは管理された空間です。怪我や誘拐の恐れが無いことや、近隣に迷惑をかけないことが優先されます。球技はたいてい禁止されています。
私は中年になって囲碁を始めました。ずいぶん努力しましたが、若い時から碁を打っている人にはかないません。専門棋士でも、小学校に入る前に始めた人と、中学生になって始めた人のあいだには、越え難い力の差があるそうです。イチローのお父さんやタイガーウッズのお父さんは、早くに息子の才能に気付き、鍛えたことで有名です。早期教育が一流になるために重要なことは明らかです。
しかし、イチローやタイガーは幸運な例外です。多くの場合、子供たちは間違った才能を開花させようとする親や指導者の犠牲になっています。
大切なのは幼い時から何を目指すか方向を決めてしまわないことだと思います。自由な空間で、自由に体を動かし、自然に自分の才能を発見発達できたらどんなにいいことでしょう。
空き地があるとハコモノが建ちます。ハコモノが不要になると払い下げられてしまいます。そうではなく、そういう空間は、広場にする政策が必要だと思います。当面は不採算に見えるでしょうが、長い目で見れば、国民の体力を向上させ、国民の誇れる選手を生みだすことになると思います。
次のワールドカップには日本の良さに個人の才能の高さを加えてカップを狙いましょう。
石川恒彦