表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > 池上本門寺の五重塔(平成20年7月)
池上本門寺の五重塔は、今年で創建400年になります。徳川二代将軍秀忠の乳母正心院日幸の発願で、慶長13年(1608)に完成しました。正心院の秀忠の武運長久を祈る気持ちが込められています。
秀忠は家康の三男ですが、長男の信康が自害、二男の秀康が豊臣秀吉の養子となったため、徳川家は秀忠が継ぐことになりました。
慶長5年(1600)、徳川軍は、会津の上杉景勝を攻めていましたが、関西で石田三成が挙兵したことを知り、家康は東海道を、秀忠は東山道を取って、上方に向かいました。ところが信州上田で、秀忠の軍は、真田昌幸に進路を阻まれ、進軍が大幅に遅れました。関ヶ原の決戦に間に合わなかったのです。家康は大いに怒り、秀忠を勘当するといいます。諸将がとりなして、やっとのことで、許されました。
慶長10年、秀忠は二代将軍に任じられました。とはいえ、家康は駿府にあって、実権を握り、豊臣家は大阪城に健在でした。秀忠の地位はまだ不安定でした。
また、秀忠は恐妻家だったと伝えられます。正妻は徳子、浅井長政と信長の妹お市の方の子供です。つまり、あの淀君の妹です。秀忠が、浮気をして、子供ができると、中絶させられたといいますから恐ろしい。乳母正心院が秀忠の武運長久を祈る沢山の理由がありました。
秀忠の地位が安定するのは、慶長19年の冬の陣、明くる年の夏の陣で、豊臣家を滅ぼし、さらに、元和2年(1616)に家康が死んでからです。
関ヶ原の戦いから大阪冬の陣まで14年、大きな戦争もなく、徳川の支配が確立していく時代でした。しかし、豊臣家は大阪城にあって、徳川と妥協しようとはしていませんでした。何か波乱を予感させる時代でもありました。そのせいでしょうか、寺社への寄進は盛んでした。正心院の五重塔の寄進もその時代の流れにあったとも言えます。
豊臣秀頼も、西にあって、慶長12年(1607)には、京都北野天満宮の修復を始め、慶長14年になると、京都方広寺の大仏殿建立を始めました。これ等の工事は、民衆の心をつかみ、秀頼の評判を高めたといわれますが、これが、豊臣、徳川の最終決戦の口実になるとは、お釈迦様でもご存じありませんでした。
すなわち、方広寺の大仏殿に付属した、梵鐘の銘に、家康はケチを付けました。銘文に「国家安康」とあるのは家康を分断している、「君臣豊楽」は、豊臣家の繁栄だけを祈っていると、いちゃもんをつけました。秀頼はもちろん弁明しましたが、通りません。慶長20年、秀頼は炎上する大阪城中で、自刃して果てました。
一方、秀忠は、元和9年には将軍職を家光に譲り、寛永9年(1632)、54歳で江戸城中西の丸に亡くなりました。慶長19年の大地震で五重塔は傾きましたが、秀忠はすぐに修復を命じたといいます。乳母正心院の願いと秀忠の感謝の気持ちが通い合っているようにおもえます。
五重塔の起源は、インドで、お釈迦様の遺骨を納めた仏塔にあります。遺骨は時代が下るに従い、小さく分骨され、各地に仏塔が立つことになりました。インドや西域では、石造が多かったのですが、中国朝鮮を経て、日本に渡るころには、木造が主流となりました。三重、五重、七重、十三重の塔が建てられました。日本では、お釈迦様の遺骨が伝えられなくても、仏を仰いで、仏塔が建てられました。
池上本門寺の五重塔にも、お釈迦様の遺骨はおさめられていません。この五重塔は、一層が和様、二層から五層までが禅宗様という、特異な形をしています。素人には、どこが違うのかすぐにはわかりませんが、専門家の説明によると、一層の屋根を支える垂木は平行に並んでいるが、二層から五層までの垂木は放射状に並んでいるといいます。五重塔の下に立って、上を見上げると、確かにそうなっています。何故そのようになったのか誰もわからないそうです。
石川恒彦