表紙 > 住職より > 平成29年6月
色々な方法でお坊さんになれるのですが、弟子になり(師匠が必要)、一定期間総本山身延山久遠寺で修行をする事、宗立大学で学問をする事。この行学二道を最低限修めると、お坊さんになる事が出来ます。身延での修行は絶対ですが、学問の修め方に色々な種類があります。
大学の4年間を終えての進路として、(1)よそのお寺にお世話になる者 (2)実家に帰る者 (3)就職する者 (4)大学に残る者(もう1年通うor大学院進学)に大別されます。 私の場合は、中途半端な成績で(4)にはならず、(3)で内定をもらうも変心し、親に(2)を願うも拒絶され、(1)となりました。主体性なくフラフラしているように見えますし、実際そうだったと思いますが、当時はそれなりに悩んだと記憶しています。
縁あって千葉県の大本山小湊誕生寺にお給仕することになりました。寺院はそれぞれに住職の為人や歴史や地域性によって個性があるものです。当時の誕生寺の貫首様は宗門きっての法話の大家であられました。誕生寺は毎朝のお勤め後『晨朝法話』と題して、365日欠かさずの法話をするお寺でした。若手には月3回の担当が割り当てられていました。貫首様や先輩僧侶の皆様に手ほどきを受け、奉職したその月から法話を担当しました。最初は出鱈目な内容に決まっていますが、お寺にも毎朝お参りされる地元の方々にも人を育てて下さる気風があったのでしょう、温かく見守って育ててくれました。今、何とか人様の前で半人前の法話を嬉々として話せるのは、全てこの時の経験のお蔭です。
僧侶の人格形成に最も影響を与えるのは勿論師匠なのですが、空っぽな状態での最初の修行生活の環境も、相当な影響があると思います。他所を知らない身ではありますが、私には一番あっていたお山だったのではなかろうかと思っています。
最近、そう思えるのは実は大変に幸せなことなのだと実感しています。相反して、何か違う未来が有ったのではないかと時々妄想もします。精神が停滞している時に多い様な気がします。
石川龍彦