表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > 断食死(平成23年11月)
一神教では、自殺は明確に否定されています。
人の命は神のものだからです。それに対して、仏教ではいささか不明瞭です。
私は仏教の戒律について暗いので、断定はできませんが、ある一定の条件のもとでは、歴史的に、自殺は許されてきたようにみえます。
かってベトナム戦争の最中、平和を願って僧侶が焼身自殺をしましたが、教理的には非難されなかったようです。
現在でも、チベットで仏教僧が、中国の弾圧に対して、抗議の自殺をしていることが伝えられています。
仏教徒は同情の念を持ってこの報道を聞いています。
経典にも、例えば、雪山童子は、羅刹(らせつ)から「諸行無常 是生滅法」の後半の偈を聞くために 自分の命を羅刹に上げることを約束し、偈文「生滅滅已 寂滅為楽」を聞くとそれを石に書きつけ、樹から飛び降りて羅刹に自分の身を食べさせようとしました。
また、喜見菩薩は日月淨明仏の法華経を説くのを聞いて感激、香で自分の体の内外を清浄にして、香木を積んで火をつけ、自分の体を日月淨明仏に供養しました。
日本の出羽三山の伝統では、五穀を絶ち、十穀を絶って、身を清浄にして、最後は断食して死に至った上人を即身仏として崇めました。
自殺を絶対の悪と決め付けるのには違和感を覚えます。
自殺する人にも、残された人にも、あまりに大きな罪悪感を与えるのではないでしょうか。
しかし、私は自殺がゆるされるなら、その手段は、断食に限ると考えています。
腹を切ったり、頭を撃ったり、身を焼いたり、崖から海に飛び込んだり、あるいは毒を飲んだり、ガスを吸ったり、皆、衝動的で暴力的です。
その上、決行と結果の間に時間がありません。失敗か成功だけです。どちらにしても、自分も周りも傷つきます。
その点、断食は、ゆっくりしています。自分の生死についてもう一度よく考える時間があります。
肉体は衰えていきますが傷をつけるわけではありません。
いつでも辞めることが出来ます。元の生活に戻るのも簡単です。
お釈迦様は、断食行を否定されています。釈尊は、苦行を否定されましたので、行としての断食も禁止されました。もちろん、病気、例えば下痢の時に断食するのは構いませんでした。
死に至る断食については何とおっしゃるのでしょう。
木谷恭介という作家に「死にたい老人」という著書があります。木谷さんは83歳。
もう十分生きたし、持病もあるし、寝たきり老人になって一人息子に迷惑をかける前にこの世におさらばしようと考えました。どう死ぬかをいろいろ考えた末、断食で死のうと決めました。この本には、その準備と経過と結果が率直な言葉で書かれています。結局、3回試みて、3回とも失敗しました。
木谷さんは断食死ではなく、断食安楽死と呼んでいますので、断食を少し軽く考えた所があったのでしょう。断食をするというのに、目の前にはお菓子があるし、冷蔵庫には食料が一杯です。持病がありますので、薬は飲むことにしました。おかしいですが、真剣です。持病が発症して、動けなくなれば、断食も出来なくなります。意図に反して周りに迷惑をかけることになります。
その薬が問題でした。すきっ腹に強い薬を飲んだので、ものすごい胃痛を起こしてしまいました。
命はいらぬが、痛いのは耐えられないということです。医者や薬剤師を訪ねることになりました。
3度の断食断念のうち、2回は胃痛と関係しています。
木谷さんは反省しています。死を望む動機に、この世に対する絶望があったのではないか。
老人問題、年金問題、その他もろもろの世の中の問題。何も解決しない政治。
ごく一部の彼がA級とよぶ人々がこの世を楽しみ、彼のようなC級の人間には何の希望もないように見える世の中。その世の中から別れたいというのは、動機として弱かったのではないか。本当に死のうと思っていたのだろうか。
断食死は、身心ともに健康で、十分この世に満足し、周囲にもその死を十分納得してもらえる人にしか望めないのかもしれません。
石川恒彦