表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > 大歩危(おおぼけ)で考える(平成30年5月)
琴平(ことひら)から土讃線で大歩危(おおぼけ)に行きました。長い登り勾配を走り、トンネルを抜けると、眼下に吉野川の渓谷が見えます。素晴らしい景色でした。
大歩危駅に近づくと、対岸の崖に清水(きよみず)の舞台を醜くしたような、コンクリートの柱の構造物があり、景色を台無しにしていました。
大歩危駅は、無人駅でした。駅前は、大歩危橋に上る、弧を描く道路が主役の感じがする雰囲気で、人気のない変な感じの場所でした。タクシーを奮発して、すこし遠くにある、落合部落を尋ねました。
山間の狭い道を30分ほど進むと、前が少し開け、落合部落が見えてきました。山の斜面を切り開き、農地にしたようで、何軒もの家が散在し、各家の周りに狭い畑がありました。樹木の生い茂る周りの山とは、はっきりちがいます。一番下の家から一番上の家まで、高低差が390メートルあると聞きましたが、それほどではないように思えました。
ここは、平家の落ち武者が開発したといわれます。ところが、運転手の話では、平氏を追ってきた源氏の侍も、争いが嫌になって、ここに住み着いたそうです。阿佐家と喜多家があって、阿佐家が平氏、喜多家が源氏の子孫だといいます。山奥の生産性の低い斜面に住み着いたのには、何か理由があったと考えるのが自然に思えました。
その晩は祖谷(いや)温泉に浸かりました。緑の渓谷を見ながらの露天風呂は快適でした。
明くる日は、大歩危峡を船から見物しました。船着き場に着くと、大きな建物と広い駐車場がありました。切符を買って、階段を降り、川に出ました。外国からの団体がちょうど着いたところらしく、長い行列ができていました。列に並び、うしろを振り返ると、切符売り場の建物は、きのう汽車から見た、あの醜悪な柱の上に立っているのに気づきました。
美しい観光地は、目先の利を追う観光業者によって醜悪なものにしばしば変えられてきました。山の頂上に建つホテルは景色を一変させ、海岸に立つ巨大旅館は他の旅館からの眺望を遮り、川の両側を埋める旅館の列は川の情緒をなくしました。
私たちは、文明を築くために自然を犠牲にしてきました。便利な都会も、美しい田園も、もともとは自然を破壊して出来上がりました。昨日の落合部落も例にもれません。それを何代もの人間が磨き上げて、今日見る都市や田園を作り上げました。
自然破壊は、所得を見る限り、私たちの暮らし向きをよくしました。その結果、誰でも観光旅行に行けるようになりました。その変化は急激なものでした。江戸時代の庶民の男は、一生に一度伊勢参りに行ければ幸運でした。戦後だって、ジャルパックのカバンを下げて、海外旅行を楽しめたのは、選ばれた人たちでした。
それが、今では、誰でも観光旅行を楽しめる時代になりました。観光地はその受け入れに躍起となっています。そのための施設が、観光資源を傷つけているのは皮肉です。夕べ私の泊った旅館も、崖に杭を打ってできているようでした。たしかに、いくつかの施設は、新しい観光資源となるかも知れません。しかし大部分は、余計なものを作ってしまったと気がつく日が来るように思えます。その時、復元の可能性はあるのか心配です。
石川恒彦