表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > 古橋広之進(平成30年2月)
平昌五輪は盛り上がらないといわれます。それは周りの人間のことで、4年に一度の大会に目標をさだめて訓練してきた選手たちにとっては関係ないことでしょう。ケガをした羽生結弦選手、調子の上がらない高梨沙羅選手が本領を発揮できるでしょうか。私は、五輪期間中、テレビにかじりついているというわけではありませんが、それでも偉大な選手たちの活躍には感銘を受け、消えることのない記憶が焼き付いています。
人間機関車ザトベック、裸足の哲人アベベ、東洋の魔女日本バレーチームと河西昌枝主将、鳥人ブブカ、霊長類最強女子吉田沙保里、挙げればきりがありません。
栄光は勝者のものです。彼らに隠れて、体調をピークに持っていけなかったり、精神面での弱さから栄光を手にすることのできなかった選手が沢山います。さらには、政治的理由で、出場さえできなかった選手がいます。
古橋広之進は、1948年のロンドン五輪に参加できませんでした。敗戦国日本はその時参加資格がなかったのです。勝負に絶対ということはありませんが、古橋が参加していれば、99%の確率で、金メダル4つをもらっていたでしょう。日本は同日に日本選手権を開き、古橋は、ロンドンでの記録をぶっちぎりで破りました。日本のプールは短い、日本の時計は遅い、などと言われたそうです。
五輪後、世界水泳連盟に復帰できた日本は、1949年の全米選手権に招待されました。古橋は、400、800、1500メートル自由形と、800メートルリレーで世界新記録を出しました。アメリカのメディアは、古橋にフジヤマのトビウオの愛称を贈りました。当時の実況放送はラジオでした。回線の具合が悪いせいか、音が大きくなったり小さくなったり波のよう、しかも我が家のラジオもポンコツ。ザーザー雑音が入っていました。
「日本の皆さま」ザー、「日本の皆さま」ザー、「こちらは」ザー「ロサンゼルス」ザー。古橋の勝利を信じて、みんな我慢して聞いていたのだと思います。
このとき1500メートル予選でマークした18分19秒0は、天野富勝のもつ18分58秒8を11年ぶりに更新したもので、以後7年間破られませんでした。全盛期の1947年から1950年にかけて世界新記録を33だしました。信じられない数字です。
1952年のヘルシンキから、日本は五輪に復帰しました。しかしこの時の古橋にはかっての勢いは無くなっていました。直前の南米遠征で、アメーバ赤痢にかかったのも響きました。400メートル自由形に出場して8位でした。
古橋は、後年、日本の水泳界、運動界の指導者になりました。古橋に組織運営力や指導理念が期待されたわけではありません。混乱する組織をまとめるには、古橋という重しが必要だったのです。不幸なことに、高度成長後の日本人の変化に気づきませんでした。五輪を楽しんでくるなど、彼には理解できなかったように思えます。名声に傷がつきました。
ヘルシンキで、古橋が8位で終わった時の飯田次男アナウンサーの放送です。
「皆さん、どうか古橋を責めないでやって下さい。古橋の活躍なくして、戦後の日本の発展はありえなかったのであります。古橋にありがとうを言ってあげて下さい」。
で銀メダルをとった橋爪四郎さんなんか1日分しかないのに・・・「フジヤマのトビウの異名をもつ水泳選手、水泳指導者。静岡県浜名郡に生まれる。浜松二中(現浜松西高)から日本大学に進み、在学中の1949年(昭和24)全米選手権に参加、、第二次世界大戦直後のスポーツ界に明るい話題を提供した。その後も、日本水泳連盟会長を務め水泳界に貢献。1990~1999年には日本オリンピック委員会(JOC)会長を務めた。
石川恒彦