表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > シベリア鉄道3 国境(平成28年4月)
地図を見ると、ウラジオストックのある沿海地方は、不自然に中国側に入り込んでいるように見えます。東京都に、川崎と横浜の沿岸部だけが組み込まれているような感じです。
ロシアと中国の国境は、おおむねアムール川です。アムール川は、世界第8の大河で、モンゴル高原から東に向かい、ハバロフスクで北に流れを変えてオホーツク海にそそぎます。
そのハバロフスクで、南から流れてきたウスリー川が合流します。ウスリー川と日本海に挟まれたところが沿海地方で、最南端がウラジオストックです。ウラジオストックは函館と同じぐらいの緯度にありますが、ロシアにとっては大切な南の港です。ウラジオストックは軍港で、かつては厳重に管理されていて、外国人の近づけない港でした。ソ連の崩壊後、やっと、観光客にも開放されました。
中国人が北のシベリアにあまり関心を持たなかったのに対し、ロシア人は、東に広がる広大な土地に関心がありました。13世紀から16世紀にかけて、ロシアはモンゴル人に支配されていました。それに伴い、ロシア人の中にモンゴル人の血も混ざりました。モンゴル人のくびきを脱した時、東へ目が向いたのは当然だったかも知れません。また、シベリアには寒い冬を過ごさねばならないヨーロッパロシアの人々の必需品、毛皮が豊富でした。
ウラル山脈を越えた東シベリアは、北からツンドラ(凍土地帯)、タイガ(針葉樹林)、ステップ(冬は枯れる大草原)と続きますが、どこも人間の定住には困難が伴うところです。狩猟民、遊牧民、漁労民などが、常に移動しながら暮らしていました。そこには、国境などという観念はありませんでした。
半分は盗賊のような、ロシアの兵隊と商人が、次々とシベリアにやって来ました。彼らは西洋の技術を使って、定住にも成功しました。そしてロシア皇帝の名の下、シベリアは、徐々にロシアの領土と宣言されました。17世紀の半ばには、アムール川の流域に進出しました。
ロシアは、中国(清朝)に領土権を認めさせようとしました。ところが、当時は、清朝の絶頂期でした。清朝は、優勢な軍事力を背景に、国境をアムール川のはるか北に定める条約を結びました。1689年のネルチンスク条約です。
条約の後、北京は、北方の警備を怠りました。というより関心が薄れたようです。そこで、再びロシア人の進出が始まりました。ロシアは力をつけ、清朝は衰えてきました。ロシアは、中国の混乱と国際情勢への無知につけ込み、アムール川左岸とウスリー川右岸を手に入れました。1858年の愛琿(あいぐん)条約です。
1949年に成立した中華人民共和国は、中国が過去に結んだ条約を尊重すると宣言しました。しかし、愛琿条約は中国にとってあまりに不名誉なものでした。また、条文に不明瞭なところもあって、解釈をめぐり激しい戦闘がおこりました。休戦ののち、交渉が行われ、最終解決は2004年を待たねばなりませんでした。ロシアが大幅に譲歩したと言われますが、沿海地方がロシアのものであることには変わりがありません。
近年、中国は帰属のはっきりしない、南シナ海の島々に住民を送り、軍事基地を建設していますが、かつてのロシアを手本にしているのでしょうか。
石川恒彦