表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > リサイクル(平成28年1月)
いつの時代でも、年寄りは、若い者の振る舞いに腹を立てるもののようです。
私のように、戦後のものの無い時代に育ったものにとって、人びとが物を大事にしなくなっている風潮は、信じられないし、心配でもあります。子供のころに野球をして、ボールが無くなると大変でした。敵味方全員で草むらに入って、見つかるまで頑張ったものです。それが、こどもたちがキャッチボールをしているのを見ていると、球がそれて、どこかに見えなくなると、ほんのお座なりに球を探した後、何事もなかったように新しいボールで遊び始めます。ものが豊かで、ものに対する執着心が無くなっているのでしょうか。
食べ放題の料理店に入ると、食べきれないほどの料理を皿に盛り、それを、堂々と残して席を立つ人をよく見かけます。堂々と書いたのは、私達老人の世界では、それは恥ずかしいことだからです。
親から、「出されたものは全部食べなさい。ご飯粒一つでも残してはいけません」と教育されて育ちました。今、食事制限のある老人が集まると、「食事には気を付けているんだが、こうして、目の前に料理を出されると、残しちゃいけないと思うんだね」と、会話がはずみます。いいわけ半分、本音半分です。
資源の少ないことにこだわると、とんだ失敗もします。核燃料サイクルなど、その最たるものでしょう。ウランを輸入に頼る日本は、ウラン炉から出るプルトニュームを燃料に使い、ウラン燃料を画期的に節約できる計画でした。その意図はよいものでしたが、うまくいきませんでした。
特に、夢の原子炉と言われた「もんじゅ」は、技術的に無理があったようで、長い年月と多量の人とカネを用いても、成功の可能性が無くなっています。
経済成長時代には「消費の美徳」などと言われました。低成長時代に入ってそんなことを言う人は少なくなっています。夢よもう一度と、政府日銀は盛んにお金をばらまいていますが、消費の時代のやけどがひどすぎて、消費する心が弱くなっているように思えます。もしかしたら、我々は、「消費の限界」に近づいて来ているのではないでしょうか。
私たちは、欲しいものはあるが、それが手に入らなくても、不幸ではないという段階に達したのではないでしょうか。
勿論それは日本国民の中でも恵まれた7割の人のことでしょう。
それに、世界の人口が増え、収入の少なかった国々の人々の収入が増えてくれば、その人たちも消費の限界まで消費を望むでしょう。地球の資源の限界も見えてきます。核燃料の循環には失敗しましたが、他の資源については、リサイクルが必至です。
今のリサイクルのシステムは不完全です。私達がリサイクルに回したと思っていても、実際は地中に埋められたり燃やされたりしていることがあります。リサイクルの中でも重要なのは、コンピューターなどに含まれる希少金属の回収です。これも非能率な手作業による分別が主流で、所期の結果を出していません。
まず家庭や事務所で分別を徹底して、回収作業を効率化する必要があります。
さらに回収工場の作業を機械化する必要があります。理想的には、製品を作る工場が、出荷に際し分解手順を公表することです。それに従い、分解工場では、自動的に製品を見極め、コンピューターが作業手順の指令を出します。ものを作る時にオートメーションによるように、分解する時もオートメーション化する事は、夢物語ではないでしょう。
製品を作る時に、リサイクルまで考えることは重要になって来ると思います。
石川恒彦