表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > 気概(平成27年8月)
一方の極端に、富こそ幸福の源泉とばかり、飽くことなく財産を増やすことに執心している人達がいます。他方の極端に、すべてを捨てる中に人生の意味を見つけようと一心不乱に修行をしている人たちがいます。全く反対の立場ですが、彼らに共通しているのは、その気概です。
その中間にいる普通の人間は、他人より少し豊かなら、他人より精神的にもすこし豊かな生活を送れると思っています。彼らに気概は必要ないでしょうか。そうは思いません。庶民の気概こそが社会を充実させると思うのです。
東芝の水増し決算、新国立競技場の白紙化、安保法案の審議、中学生のいじめ自殺。共通するのは関係者の気概欠如です。日本中の人間に気概欠如症が蔓延しているように思えます。
東芝の場合、まず、業績不振に正面から立ち向かえない社長がいます。どこをどうすればいいのか、考える力がありません。部下に業績をやみくもに上げるよう指示するしか能力の無い社長です。困った部下は、粉飾に手を染めます。
上司に、そんなことは出来ないと抵抗する社員が一人もいなかったのは驚きです。皆今日の自分がかわいく、不正に立ち向かう気概に欠けていたのです。
新国立競技場の設計計画が白紙になった時、多くの人が、あのデザインは初めから気に入らなかった、費用がかかりすぎるのではないかと心配だったと、語り始めました。選定に責任を持った組織の内部の人達からの発言です
選定を主導したという建築家は、私はただデザインを選んだだけだと言います。外観を選ぶだけなら建築家の目は必要ありません。漫画家でも頼めば良かったでしょう。
建築家なら、そのデザインが建築可能か、費用はどれぐらいかかるか、その他必要な事項を勘案してこそ責任が果たせるというものです。
初めからおかしいと思った人たちが、初めから声を上げなかったのも気概の欠如です。
安保法案の審議は、歯がゆいことこの上ありません。野党の質問は、何か政府から言質を取ろうという以外に、迫力がありません。もっと、日本の安全をどう守るか、根本のところを議論すべきです。何か腰が引けています。もっと不思議なのは与党の内部です。与党議員の中にもこの法案はおかしいと思っている人がいるようです。その人たちは声をあげません。将来、この法律が施行されて、何か不都合が生じたら、彼らは、初めからおかしいと思っていたと発言するでしょう。大与党に住む心地よさが、気概をそいでいるのでしょう。
最近、いじめにより、中学二年生が自殺しました。はじめ学校は、いじめの事実はつかんでいないと言いました。苦しみを書いた生徒の連絡帳が見つかると、担任から何も話を聞いていないと校長は言いました。ここ2年、この学校ではいじめは皆無だったといいます。ここで私はおかしいと思いました。いじめの無い学校などありません。いじめたり、いじめられたりして子供は成長します。
適切な指導があれば、過激なことにならず、子供たちは、社会でどう他人と付き合っていくかを学ぶのです。いじめの無いのがいい学校と皆が思い、いじめの兆候があると、それを隠そうとする傾向があります。たぶん、時の過ぎるのを待って大事が起こらねば、目出度し目出度しなのでしょう。校長も先生も言ってみれば庶民です。安穏な日々に安住するあまり、正義への気概が欠けているようです。
みんなと同じ行動、同じ考えを持たないと居心地の悪い世の中になっています。また、そういう大勢に従っていれば、気楽に生きられる世の中でもあります。しかしそれでは結局大勢を誤ることになります。第二次世界大戦に負けたとき、多くの日本人がこの戦争は初めから勝てるはずなかったと言いました。しかし、ほんの少しの例外を除いて、戦争中に、戦争や植民地主義に反対した人はいませんでした。
自分で考え、自分で行動し、自分で責任を取る庶民の気概こそ、社会を逸脱から救うものだと考えています。
石川恒彦