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隠居からの手紙

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苦い思い出

  下田にある本覚寺の住職のご母堂が亡くなったという知らせを受けて、お通夜に出かけました。
このお寺には、苦い思い出があります。

  もう二十年も前でしょうか、住職から四つ切の写真が送られてきました。お寺の由緒を伝える石碑の写真で、住職が解読された文章も付いていました。本覚寺は私の寺と縁の深い寺ですので、興味を持って拝読しました。ところが、石碑の下部が傷んでいて、いくつかの字が判読不明です。住職は、前後の文字から推測された文字を当てられていましたが、どうも文意が取れないところがありました。そこで、一度現物を拝見して、自分の目で確かめたいと考えました。

  そう考えはしたのですが、ずるずると実現が遅れました。一つには、下田に折角行くのだから、一泊して温泉につかろうと邪念が入ったせいです。二つには交通の便が悪いせいです。下田に住むかたは、東京に用があると、日帰りも出来るそうです。ところが、東京から逆に下田に行こうとするとそうはいきません。下田は観光地ですので、急行列車は夕方早くついて、あくる日の昼間、東京に戻るように編成されています。夕方以降、東京に戻る急行列車がありません。自動車でも同様です。下田から朝早く東京に向かう道は空いています。夕方遅く下田に向かう道も比較的空いています。その逆は混んでいます。伊豆半島の道路事情はよくありません。

  そうやって、いつも心の片隅に引っ掛かっていたのですが、何とはなしに、年月がたちました。
やっと念願かなったのは、隠居して少し時間が出来た3年前でした。

  伊豆急下田駅で降りて、整備された道を歩くこと10分、本覚寺に着きました。住職に来意を告げますと、怪訝な顔をされます。「まあ見て下さい」と言って、石碑に案内して下さいました。吃驚しました。石碑は、のっぺらぼうです。数ヶ月前、突然、経年変化で表面が剥落してしまったのだそうです。石碑の下には落ちた石片がまだそのままで、字が書いてあることがわかります。
しかし、それを集めて、修復するのは、よっぽどの専門家が、よっぽど時間をかけてやらなければ不可能に見えました。

  なんという迂闊だったでしょう。今日出来ることは今日やれと、師匠に厳しく教えられましたが、明日やろう明日やろうとやって来た罰を受けました。

  石碑は、開山の日英上人(1346―1423)の事績をたたえています。日英は、中山法華経寺の僧で、千葉県山武郡埴谷(はにや)に妙宣寺を開きました。大変な精力家だったようで、多くの弟子を育て、生涯76か所という寺を創立しました。弟子の中には、京都本法寺を建てた「なべかぶり日親上人」もいます。

  76の寺というのは、多くは弟子たちが寺を建てた時、師匠の日英を開山上人と仰いだものだと言われています。実際に日英がその地へやってきたかどうかは、わかりません。下田の本覚寺もそういう寺の一つだったのでしょう。

  この石碑で興味深いのは、日英終焉の地を飛騨の海老島とし、お墓がそこの稲荷山にあるとしていることです。
出版された諸書には、亡くなった場所の記述はありません。しかし、飛騨(岐阜県)に海老島という地名はありますが、その付近に稲荷山は見つかりません。また日英の行年を82歳としていますが、普通77歳だっと言われます。さらに、日英は、亡くなる数年前から脚気を患い、遺書まで書いています。七十代の脚気もちの老人が、千葉から岐阜まで行けたでしょうか。どうも石碑の内容を信じられません。

  石碑は日英の死後400年を過ぎて造られました。とはいえ、全くの嘘を石碑に書くとは思えません。
何らかの伝承があり、その中に一分の真実があると考えるのが常識でしょうか。そこで、明日調べよう明日調べようと、新しい苦い思い出を作っています。 

石川恒彦

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