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隠居からの手紙

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凧揚げと東京

  正月に孫を預かりました。娘一家は、毎年正月を夫の実家で過ごしていますが、今年は長男が暮れから熱を出して、とても新幹線には乗せられないと逡巡していました。元旦になって、とうとう諦め、我が家に長男を預けに来ました。

  その時娘は、手作りのタコを置いて行きました。なんでも、小学校一年生の長男が、「タコが糸を引っ張る」と書いてあるのを読んで、「海のタコがどうやって糸を引っ張るの」と聞いたらしいのです。立派な教育ママの娘は、早速近所の店を回って見たのですが、凧が見つかりません。
それで、ネットで作り方を探して、自分で作ったということです。「今夜熱が出なかったら、明日凧で遊んであげて」と、言い残して彼女は下の子二人を連れて出掛けました。

  二日は快晴でした。しかし、2時頃まではお寺の新年会でしたので、孫は自由にさせておきました。3時過ぎ、もう一人の孫が来ました。凧を持って駐車場に行きました。あいにく無風でした。
ジジの腕の見せようがありません。孫に糸を持って駆けだすように言いました。凧は見事に上がりました。
駐車場を一周して、走るのをやめると、凧は落ちました。感覚をつかんだ、孫たちは、代り番こに、一人が糸を引き、もう一人は上がったタコを追いかけました。

  すっかり夢中でした。家内が晩御飯だと呼びにくるまで遊んでいました。
凧を売っていないのは、凧揚げがつまらないのではありません。凧揚げを楽しむ場所がないのだと気が付きました。道行く人は、羨ましそうに、凧だ凧だと言いながら、歩いて行きました。

  戦後、焼け野原だった東京に、未来を求めて地方から沢山の人がやってきました。資本主義とは言え、政府の力が強い日本では、東京に事務所があることが有利でした。東京への一極集中が進みました。
計画はあっても実行力の伴わなかった東京都は、焼け跡に事務所や住宅が無秩序に建てられるのを防げませんでした。こま切れの広場、狭い道を走り抜ける自動車、乱立する電信柱。凧を揚げられない、子供を外で遊ばせられない、東京が生まれました。

  一極集中の弊害は、早くから認識されていました。日本列島改造計画や、政府機構一部移転計画がありましたが成功しませんでした。一極集中がますます進んでいるのが現状です。地方を魅力あるものにしようと、補助金がばらまかれてきましたが、どこも横並びの未来図で、独自の魅力がありません。

  おそらく筑波学園都市が、例外的成功例でしょう。中核になる事業が明確だったからです。
しかし、朝、東京駅前に並び、つくば行きのバスを待つ教職員の姿を見ると、人間の住む町として何か欠陥があるのかもしれません。

  東京一極集中を自然の流れと受け入れ、東京をより住みやすい街にする努力するのか、東京への流れを分流する魅力ある都市を地方に作り、何が何でも東京という日本人の心理を変えるのか、まずそれを私達は決心しなければならないと思います。  私は後者を選びます。そして、東京から抽出する機構として、政府を選びます。つまり遷都です。拙速はいけません。私たちは成田空港の悲劇を知っています。まず候補地を選び、住民投票を行います。遷都の候補地として、計画を立てていいかどうかを問います。次に補償の仕方を問います。地主、農民、商店主、借地人、借家人など、利益団体ごとに投票してもらいます。
一団体でも反対があれば計画を中止します。最後に都市計画案を投票に掛けます。迂遠ですが、成功のためには、まず住民の理解が必要です。建設を始めて、50年ぐらいで、一応の完成を目指します。

  東京にあった官庁の建物は、歴史的美術的価値のあるものを除いて、壊します。跡地は緑地とします。どうしてもそこに施設を作りたいという時は、他所に、緑地を用意させ、地価に応じた交換をします。
凧揚げのできる東京の始まりです。

石川恒彦

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