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隠居からの手紙

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後 光

  最近のお寺は、お堂の中がすっかり明るくなりました。電気のお陰です。お堂の中で本が読めるし、正面に安置された仏像には、特に強い光があたって、輝いて見えます。少し前までは、お堂の中は暗かったものです。今でも古い大寺院にお参りすると、中は薄暗く、仏さまも蝋燭の光の中、うっすらとしか拝見できない時があります。伝統に縛られた古刹では、お堂の中を明るくすることに抵抗があるのでしょう。

  仏像の後ろには、たいてい、光背(こうはい)が立っています。一見、仏さまの背後を守る楯(たて)のように見えますが、違います。仏さまの放つ光を表しています。後光です。実際に光を出しているわけではありません。光背を光と見立てているのです。

  ミャンマーに行くと、本当に光を出している光背にお目にかかれます。ネオンサインのように光っています。
初めはぎょっとしますが、地元の人たちと一緒に礼拝すると、意外に自然です。

  仏教の初めには仏像はありませんでした。お釈迦さまが亡くなって300年ほどたってから、仏像が作られるようになりました。初めて仏像を見た信徒たちはびっくりしたでしょう。記録にはありませんが、恐らく保守的な僧侶たちは、仏さまを像にするなどもってのほかと怒ったことでしょう。

  日本に仏教が伝わったのは、西暦552年、欽明天皇の13年、百済の聖明王の使いによってだとされています。この時、経論と共に仏像がもたらされました。 もちろん、この時以前から、貴族の間では、仏教についてのおおよその知識があったようです。しかし、百済王のもたらした金色の仏像は、強い印象を人々に与え、仏教信者の増加に大いに寄与したようです。

  中国や朝鮮の影響を受けて、日本でも仏像が作られるようになりました。仏像の形や姿には、多くの決まりがあって、突飛なものは作られませんでしたが、仏像製作は、技術的にも、美術的にも日本独自の発達を遂げ、運慶・快慶に代表される鎌倉時代に,その頂点に至ったと言われます。それ以後は、徐々に形式主義的な造像が行われ、江戸時代の初期には、停滞期に入り、そのまま現代に至っていると美術史家は言います。それは、仏教信仰の高まりと停滞に連動しているように見えます。

  ミャンマーでは、僧侶の修行する僧院と、信徒の参詣する仏塔(パゴダ)が別れています。どちらも信徒団体が所有しています。僧院では僧侶も管理運営にかかわるでしょうが、仏塔では、仏塔を所有する信徒団体の役員が主役です。一般信徒に近い彼らが、後光のさす仏を拝みたいという人びとの願望に応えて、光る光背を考え付いたのでしょう。電気の時代を迎え、日本では、外から照らしましたが、ミャンマーでは中から輝いているのです。どちらが革命的でしょう。後光の光る仏像は、ミャンマー仏教の今なお盛んな活力を示しています。

  最近の読売新聞に、向井ゆう子というかたの「神々しい後光」という記事が載っていました。彼女は、ヤンゴンのシュエダゴン・パゴダを紹介しています。高さ百メートルの黄金の仏塔とその先端に埋め込まれた宝石、光り輝く光背を持つ仏像、境内で使える無料wi-fi、寄進用に備えられたATMについて書いた後、唐突に、「でも、やっぱり残念な気持ちがしてしまうのは、先進国の傲慢さかもしれない」と記して記事を終わっています。彼女が残念なのは、光る光背を持つ仏像なのか、仏塔に埋め込まれた宝石なのか、境内にあるwi-fiやATMなのか、はたまた、電力の浪費なのかわかりません。分るのは、宗教を理解しないものの傲慢さです。

  光る仏像がミャンマーの標準となるのか、あるいは一時の流行で、やがて消えてしまうのかはわかりません。ただ、原色に輝く光背を見て、ミャンマー人の信仰を浅薄なものと考えては、間違えます。たとえば、ミャンマーには瞑想道場が沢山あります。そこを訪れる機会があれば、ミャンマー人の求道心の深さに気付くはずです。

石川恒彦

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