表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > 緑化(平成25年11月)
人間は、昔から、森林をつぶして畑を作り、荒野を灌漑して、また、畑を作ってきました。森林が消えた分、荒野が畑になり、全体として緑の量は変わらなかったのかもしれません。しかし、工業の発展と、都市の拡大により、緑の絶対量が減りました。田畑、森林、原野が次々と、道路、住宅、工場に変わりました。そこで、緑を人工的に回復する努力も盛んになりました。公園や庭園が作られ、街路樹が植えられています。さらには森林造成に取り組む人も少なくありません。
本屋で、宮脇昭「森の力、植物生態学者の理論と実践」という本を見つけました。帯には、「4000万本の木を植えた科学者の熱きいのちの物語」とあります。早速買って読んでみました。
宮脇先生は、新日鉄住金大分工場の緑化に成功し、以後、日本中の工場緑化はもとより各地の植林に奮闘されている方として有名です。万里の長城にまで出かけて木を植えておられます。
先生の持論は、気候風土に合った植林です。植林を依頼されると、現地に向かい、土地の優勢な樹木を探し出して、その種子を集めます。それをビニールポットで育てて、密植します。支柱などは用いません。手入れもほとんどしません。何年かすると、弱い木は枯れ、そこに風、鳥、虫が運んできた別の種が落ち、発芽します。長い年月を経て、自然林に近くなります。
先生が、その土地の植生を調べる、一番いいところは、鎮守の森だと言います。今では少なくなりましたが、町でも村でも、歩いていると、こんもりとした森に行きあたることがあります。鳥居があるので神社があるのだと解ります。神社を囲む木々には神様が宿っているというので、人手がほとんど入りません。かと言って荒れているわけではありません。何百年も自然のままですので、その土地に合った植生に従って安定した森を作っているのだと言います。
お寺も緑に囲まれているところが多いと思いますが、自然林ではなく、手入れの行きとどいた庭に囲まれている場合が多そうです。裏に山があれば、自然に任せているように見えますが、よく見ると、スギやヒノキの人工林もまた多いようです。神主さんより坊さんのほうが、自然に対する畏敬の念が劣るのかもしれません。
お寺の庭は、自然に手を加えて、自然を越えた世界を表そうとしていると言われます。すぐれた庭を散歩したり眺めると、人は大自然の中に、あるいは大宇宙に遊ぶかのような気持になります。心が落ち着き自然や人生について少し考えたくなるかもしれません。
寺の裏の小さな崖に、アジサイ園を作りましたが、なかなか思うようにはなりません。もっと手を入れて立派なものにするか、むしろ放任して、この土地に合った樹木が育つに任せるか迷っています。私のアジサイ園は、自然回復でも、造園でもありません。園芸という遊びです。花の時期には、近所の人に、「今年もきれいに咲きましたね」と、ほめられます。それが楽しみなようなものです。自然の回復力は大したものです。アジサイの下草を刈っていると、スギ、ヒノキ、イチョウ、シイ、サクラ、ケヤキなどの芽が地面から出ていることに気が付きます。雑草だけを抜けば、芽は成長して大きな木になるでしょう。その代わりアジサイは駄目になるでしょう。雑草があれば、アジサイも新しい木の芽も負けて枯れてしまうでしょう。宮脇先生が、ポットで育てた苗を密植するのは、そこを見てとってのことだと思います。
色々悩みますが、当分はアジサイ園の手入れを続けます。そこで、徐々に樹木の実生の芽を摘まないようにして、手入れの要らない鎮守の森(お寺の森をなんて呼ぶのか知りません)に成長させるのも悪いことではないと思っています。
まあ、当分の間は、小さく雑然とした池上のアジサイ園は残り、時に、近所の人と楽しみ、時に、花を折って持って行く人には苦情を言っていることでしょう。
石川恒彦