表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > お寺の未来(平成24年6月)
隠居しました。華々しい活躍をしたわけではありませんが、お寺の仕事を誠実に務めることができたとおもいます。
檀家の方を導くなどという大それたことはできませんでしたが、みんなから信頼して頂けたという実感はあります。
本堂の屋根を直したり、隣地を買収したり、お金のかかることもありましたが、その都度、無理なく乗り越えることができました。自分の今後に不安はありませんが、お寺の今後には心配があります。
まず、人々のお寺離れです。私の代では、年中行事に参加する人は減りませんでしたが、法事に参列する人数は顕著に減りました。少し前までは、四十九日や一周忌が重なると、部屋が足りなくなる時もありましたが、いまでは、ごく小人数で来山されることが当たり前になりました。
後継者難も深刻です。お寺離れの結果として、僧侶になろうという人も減りました。
無住の寺が増えています。僧侶の間の切磋琢磨が少なくなり、自然に僧侶の資質が低下してきたと言われます。
お寺の問題で一番大きいのは、お寺の維持にお金がかかることです。
古い建物、苔むした庭、維持費がかかります。基礎的代謝が高いのです。箒を手に庭を掃くのは、今も昔も、僧侶の仕事であり修行です。もちろんそれだけでは境内や建造物を維持できません。
僧侶の手に負えない仕事ができたときは、檀家の方々の労力奉仕が期待できました。
それがだんだん難しくなっています。どうしてもお金が必要になります。
本を読んだり、文化講座で話を聞けば、仏さまの教えは案外簡単です。
多くの人は、わかったと思ったところで、歩みを止め、仏教とは関係なく生きることになります。
お金のかかりそうな寺とは関係したくないし、俗人と変わらなく見える坊主とも付き合いたくありません。
しかし仏教はわかるだけでは、何の足しにもなりません。実践してこその仏教です。
ところが、実践は本を読んだだけでは進めません。指導者が必要です。手本が必要です。
指導者はどこの世界でも大切です。とくに宗教の世界で、邪心を持った指導者に引きずりまわされるほどの不幸はありません。宗門で僧侶と認められた人は、一応の信用を獲得できた指導者です。しかしもっと実力を高めなければならないのは言を待ちません。
宗教は個人的営みともいえますが、仏教では、はじめから信仰は集団的でした。
同じ信仰をもつ人々が一か所に集まり、指導者の話を聞き、信仰を確かめ合い、高めあうことは大切です。
その場が寺院として発達しました。
ところが、現代のお寺がそういう役割を十分果たしているかと言うと、心もとないものがあります。
今ある堂宇は必要以上に立派なものでありながら、現代の必要にこたえるには何か不足しています。
将来偉大な指導者が現れて、坊主は長屋に住み、集会は公共施設を借りて行うようになるかもしれません。
その時、私たちの先祖が、営々として築きあげてきた美しいお寺がどうなるか、心配です。
作られたものは必ず滅びるという、仏教の基本の基本を踏まえても、執着を離れられません。
石川恒彦