表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > 故郷を捨てる(平成23年8月)
3月11日の大震災から4カ月が過ぎました。
死者が1万5千人、今なお行方が分からない方が5千人だと伝えられます。避難を余儀なくされた方は、最大50万人だったと推定されていますが、少し落ち着くと、家に戻ることが出来る人は家に戻り、5月の終わりには、10万人を切ったと言われます。
ところが、それから一向に避難者数が減りません。7月中旬の推計で、9万1千人強と発表されています。
避難所にいる人が1万8千人、旅館や友人宅にいる人が4万1千人、仮設などの住宅に入れた人が3万3千人です。さらに原発事故で避難を呼び掛けられている人が20万人はいるようです。
これらに加えて、命も家も無事だったが、いろいろの事情でもう元の場所では生活できないという、潜在的な避難民がたくさんいます。
私の寺の裏庭に、二階建ての小屋があります。昔は物置でしたが、先代住職が二階建ての書斎に改造しました。私が結婚すると風呂を作って、新居となりました。
その後は、庭掃除の一家の家となっていました。庭掃除の主人が亡くなり、一家は転居しましたので今は空き家です。そこで、一時避難所として、この家を提供する事にしました。
大田区に申し入れると、大変喜んでくれました。ところが、いつまでたっても、希望者が現れません。やっぱりお役所仕事は駄目だ、インターネットの紹介サイトに登録すべきだったかと思いました。
7月に入り、もう希望者はいないだろう、又、庭掃除を探そうと話している時に、大田区から電話がありました。
入居希望者がいるので、伺ってもいいでしょうか、まだ提供して頂けるのでしょうかという、なかなか丁寧な電話でした。
翌週に会うことにしました。
当日見えたのは、大田区の係りの人、福島の三人家族、それに大田区の宅建協会の役員の5人でした。
宅建協会の人はボランティアだそうで後々面倒が起らないように、契約書を作ってくれるということでした。
大田区に住宅提供を申し出て正解だと思いました。
福島から来た方は、いわゆる被災者ではありませんでした。
ある資格を持って仕事をしていましたが、まわりに人がいなくなって、仕事が続けられなくなりました。つてを頼り、資格を頼りに仕事を探したところ、大田区のある事業所に就職できました。しかし、家は売れないし、お金も底をついてきているので、当面住むところが欲しいのだと事情を説明されました。
裏の家を見せると、三人家族は無表情でしたが、大田区の人と宅建役員は、いい物件だと喜んでくれました。
他にも候補があるだろうから、よく検討して、申し込んでくれれば、いつからでも住めますよと言って、帰ってもらいました。
その日のうちに、大田区と三人家族から電話があり、是非お願いしたい、7月の終わりに引っ越してきたいという希望でした。私の女房の提案で、せっかく住んでくれるのだからと、大工を入れて痛んだところを修理し、清掃業者に便所と風呂場をピカピカにしてもらいました。
それが、お盆が終わった頃、大田区の係りから、断りの電話がありました。
私が電話に出た訳ではないので、詳しくはわかりませんが、電話に出た息子によれば、この家族は、東京に出るべく荷物の整理を始めると、あれも捨てられない、これも捨てられない、とうとう、家も捨てられないということになって、故郷に留まることを決心したようです。
私は、初めちょっと当惑しましたが、すぐに彼らの気持ちに思いが至りました。
自発的にではなく、天災やそれにともなう人災によって、故郷を捨てる選択肢を目の前に突き付けられた人々の気持ちにです。そういう人が30万人以上いるとは。暗澹たる気持ちになりました。
小屋は当分空けておくつもりです。でも、庭掃除のいい人が見つかったら、決心がぐらついて、住んでもらうことになるかもしれません。
石川恒彦