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隠居からの手紙

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避難所

  東日本大震災の被災者は、公的施設だけでなく、お寺にも沢山駆け込みました。そのままそこを避難所とした人も少なくありません。第二次世界大戦の終戦前後、私の育った寺も、戦災の被害者たちの避難場所になっていました。

  この付近の空襲は、昭和20年4月15日でした。私の父はサラリーマンでしたので、住まいは徳持にありました。父も応召しましたが、すぐに病に倒れ、恐らく療養のため、祖父の寺に戻っていたのでしょう。空襲は池上で体験しました。京浜工業地帯を狙った米軍は、その中心を離れていた池上も爆撃し、池上本門寺をはじめ、寺、学校、住宅が燃え上がりました。母に連れられて、恐らく市野倉の方面に逃げました。消防自動車が一台とまっていて、母をはじめ人々が、本門寺が大変だと叫びます。ところが消防自動車の運転手と思しき人は、何かぼそぼそ言っていて、動こうとしません。少し離れると、母が、消防自動車にはガソリンが入っていないと、軽蔑するように教えてくれました。記憶では、消防自動車は赤い色ではなかったように思えます。

  その少し前に強制疎開で、私の寺と小学校の間の人家が取り壊されていました。そこで、私の寺は被害を免れました。主に蒲田方面から、檀家の人を中心に、多くの方が避難してきたようです。すっかり焼け野原で、蒲田から、うちの本堂が見えたと言いますから、格好の目標だったのだと思います。

  ほんの子供でしたから詳しい事は憶えていませんが、急に人数が膨れ上がり、おそらく檀家の人なのでしょう、屋根に登って懸命に火の粉をはたいています。黒こげの荷物を積んだリヤカーがやってきて、おばあさんが何か怒鳴っています。後でわかったのですが、その荷物はそのおばあさんの旦那さんの遺体でした。

  私達は、母の親戚を頼って山梨県に疎開しました。父は東京に残りました。戦争が終わって、寺に帰ると、本堂や離れには、知らない人がたくさん住んでいました。母と徳持の家に行ってみますと、すっかり焼けていて、タイルの流しと便器が真っ白に傾いているのが妙に記憶に残りました。

  本堂に住んでいる人々は家族ごとにまとまり、炊事や洗濯を別々に行っていたようです。水は、本堂の前にあった井戸を使っていました。七輪を廊下で使う人も多く、離れに避難していた総代のおじいさんにしょっちゅう怒られていました。罹災者が誰もいなくなった後、母が廊下をきれいにするのに随分時間を取られていたのを憶えています。

  罹災者はどうやって生活を維持していたのでしょう。昭和17年に、戦時災害保護法が出来て、12万7千人が救済されたと言いますが、一説によれば、罹災者は8百75万人と言います。大部分の人は、公的援助を受けられなかったのです。昼間は本堂には誰もいなくなり、夜になるとたくさんの人が布団を並べて寝ていました。皆何か仕事をしていたのでしょう。悲惨と言う感じはありませんでした。

  おカネばあさんという人がいました。自分の仏壇を持っていて、よくお経をあげていました。お経をあげる時、ガマ口の口を開いて仏さまの方に向けていました。母がなんでそんな事をするのか聞くと、ガマ口に仏様がお金を入れてくれるように祈っているのだと答えたそうです。
父は昭和21年の9月に亡くなりました。本堂で葬儀が営まれましたが、その時の写真には、避難者の生活の影が有りません。おそらくそれまでに、皆お寺を出て行ったのでしょう。

  戦後30年がたったころ、立派な身なりの紳士と、その息子と思しき気持ちのいい青年が寺を訪ねてきました。紳士は戦後ここでお世話になった、本堂にお参りさせて下さいと来意を告げました。本堂に案内すると紳士は丁寧に仏様を拝んだ後、やおら畳の数を数え始めました。何度も確認した後、一枚の畳を指して、口を開きました。

  「おい息子、ここでお前が製造されたのだ。」 

 

石川恒彦

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