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隠居からの手紙

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素人史観

  「もう一度読む山川日本史」を読みました。知識はどうしても偏ってしまいます。自分が関係したり関心を持った分野の知識はどんどん増え、普段あまり接しない事柄は忘れてしまいします。これは知識全般についていえることですが、一つの分野に限ってもそういう傾向があります。ときどき通説書を読んで、知識のでこぼこをただすと、今まで見えなかったものが見えてきます。

  4世紀の終わりから5世紀にかけて、高句麗の王、広開土王は、半島に進出した倭の軍と戦いました。広開土王碑にでている記事です。高句麗は朝鮮北部の国ですし、この碑は、鴨緑江を越えて現在の中国に当たるところから出土しました。そこで、日本軍は相当半島深く進出していたことになります。

  1970年代になって、朝鮮側研究者から、碑は日本の朝鮮進出を正当化するため、石灰を塗って、改ざんされているという主張がなされました。私はその写真付きの新聞記事を読んで以来、そんなものかなと思っていました。さらに広開土王の正式名は、国岡上広開土境平安好太王で、広開土王は、日本人の付けた蔑称だから、略すなら好太王だとも信じていました。

  ところが、「もう一度読む山川日本史」によれば、石灰塗布以前の原拓が発見され、その主張は完全に否定されたといいます。また、広開土王の名は、12世紀の朝鮮最古の史書、「三国史記」に出てくるのだそうです。

  おそらく、原拓が出てきたという新聞記事があったのでしょうが、読み落としていました。また、日本人が、朝鮮人を馬鹿にしていたという、漠然とした気持ちが、広開土王を蔑称と思わせたのでしょう。もっとも「もう一度読む山川日本史」では、広開土王(好太王)碑と記しています。

  もう一つ、今回気がついたことがありました。日本の歴史にとって、新田開発の歴史が大変重要だということです。弥生の昔より、勤勉な祖先たちは、耕地面積を増やしてきました。

 紀元前4世紀のころ北九州で始まった水稲耕作は、2世紀のころには東北地方北部まで達したといいます。九州から始まって、東北まで新田を開発していったわけです。はじめは、低湿地帯に田圃を作りましたが、やがて灌漑技術が発達して、徐々に高い土地にも水田を作るようになりました。そのためには組織が必要でした。階級の差が生まれ、貧富の差が出てきました。貧富の差は個人の間だけでなく、集団の間にも生まれました。集団間の協力と闘争が起こりました。大きい組織が有利となり、やがて全国統一の力となりました。

  奈良平安時代の貴族も、戦国時代の武士も、徳川時代の農民も、新田の開発に熱心でした。この教科書には書いてありませんが、昭和の八郎潟の干拓や、有明海の干拓まで新田開発は続きました。開発した新田には租税の免除など、特権が伴い、旧来の田を耕す人より有利な立場に立ちました。その経済力が、時代を突き動かす力となり、動乱を生みました。しかも、戦国時代の終わり、太閤検地のあるまでは、田畑の耕作権、支配権、所有権は複雑に入り乱れて、争いの種が絶えませんでした。

  応仁の乱は1467年から11年続いた大乱でした。京都は焼け野原となりました。互いに戦っている支配者たちの荘園・公領などは国元にいる代官などに押し取られてしまいました。戦いが終わったのは、力の元である領地が存亡の危機に立ったからだと書かれています。

  一所懸命、農民が土地に執着するのは、それが先祖伝来の土地だからと言います。それより執着が強いのが、自分で開発した土地ではないでしょうか。

  成田空港敷地の農民が、激しく収容に反対したのも、彼らが満豪から引き揚げてきた開拓農民であり、戦後、困難を乗り越えて新たに開発した農地を、一片の法律で取り上げられようとしたことが大きな原因だったといわれます。農業部門の比重が大きかった一昔前なら、内閣をつぶすほどの闘争になったかもしれません。 以上、素人史観の思いつきを述べました。

平成22年2月
石川恒彦

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