表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > 夕涼み(令和6年8月)
近頃トンと聞かない言葉に夕涼みがあります。少し前までは、夏の暑い日の夕方、暗くなり風が出てくると、縁側に出て風を楽しみました。ときには、井戸で冷やしたスイカが出てくることもありました。むさぼり食べて、子供たちは、スイカの種を遠くに吹き飛ばす競争競争に興じました。線香花火も楽しみました。
道に出ると、そぞろ歩く老若男女に会いました。どの家も窓や戸を開けていて、夏の夜の風を楽しんでいました。ご飯を食べる家、子供を怒っているお母さん、新聞を読んでいるふんどし一つの太ったおじさん。なんでも見えました。知り合いのおばさんに呼び止められて、スイカにまたありつけることもありました。
今でも、夏の夜の道を歩けば人に会います。汗をかきかき駆けている人、重たい足を引きずりながら歩いている人、犬を散歩させている人。どなたも夕涼みを楽しんでいるのではなく、涼しくなったので、駆けて体を鍛えよう、リハビリのために歩こう、犬に運動させなくてはと、目的があって外に出てきた人が多いようです。かくいう私も明日の朝の牛乳を買いにコンビニに行くところだったりします。判断に迷うのは犬を連れた人たちです。コンビニに行く途中犬連れどうしが話しているのに会います。帰りにもまだいます。これは夕涼みでしょうか、おしゃべりが目的で犬を連れだしたのでしょうか。
冷房とテレビが人を夕涼みから遠ざけた理由でしょう。夏の夜は、気温が下がったといっても、しばしば25度を越えます。20度前半に温度をセットした部屋の窓を開ける人はいません。わざわざ外に出るより、快適な部屋でビールでも見ながらテレビを見ている人のほうが多いのでしょう。夏の風物詩、縁台将棋が消えたのもむべなるかです。
家の構造も夕涼みを楽しまなくなった原因でしょう。昔は縁側のない家でも、障子や硝子戸をあけて居間から出入りできるようになっていました。親しい間柄ですと、わざわざ家に上がらなくても、そこに腰かけて茶飲み話をしたものです。それが新しい家では、家の四囲は壁になっていて、出入りは玄関や台所口からするのが普通です。縁側がそもそもない家が主流です。
コンクリートでできた集合住宅ではもっと極端です。階段やエレベーターのなかで会う人は限られていますが、なかなか親しくなれないと聞きます。いったん自分の家に入ってしまうと外に出る動機は少ないようです。鉄の扉を開けて、挨拶するのは、よっぽどの親しい仲です。ベランダが付いていても、たいていは狭くて、椅子を置いて涼む気になりません。せいぜい立ったまま缶ビールを飲むぐらいです。隣のベランダとは仕切られています。夏の夜に外出するのは、飲食や買い物に限られてしまいます。
開放的な家から、閉鎖的な家になったのは、理由のあることだったでしょう。冷房やテレビは、わたくしたちの生活を快適にしました。しかし失ったものも少なくありません。夕涼みもその一つでしょう。蚊取り線香をつけ、団扇を片手に、汗を流しながら涼むなんてどうかしています。しかし、それが都会に住みながら、自然を感じる贅沢な時間だったと郷愁を感じます。
石川恒彦