表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > 国葬(令和4年9月)
安倍晋三元首相の国葬が執り行われることになりました。このことについては、賛否の意見があるようですが、それには触れません。この機会に国葬について考えてみたいのです。
吉田茂元首相の国葬以来、五十数年がたちます。その時も国葬の是非について、論議があったようです。それ以来、国葬について、議論が深められなかったのは、国民の怠慢といえるでしょう。あるいは、もう国葬に値する人は現れないと、暗黙の了解があったのでしょうか。吉田さんは、毀誉褒貶の激しい方でした。それでも、国葬が混乱もなく行われたのは、敗戦後の厳しい時代を共に過ごしたという記憶を国民が共有していたからではなかったかと思われます。安倍氏の葬儀のあとには、国葬についての議論が深まり、法律が定められることを期待しています。
その際、検討を加えてほしいのは、政治と宗教の関係です。憲法は、国が特定の宗教を支持することを禁じています。そこで、吉田氏の時も、今回も、宗教色なしの儀式を行うとされています。
おかしいとは思いませんか。葬儀を行うという行為自体が、広義の宗教の一部です。太古の人類の遺跡からも死者を弔う行為があったことが分かっています。葬送は宗教の始まりともいえます。祭壇に向かって弔辞を読めば、暗黙の裡に、そこに死者の魂が存在することを認めています。世の中には魂の存在、あるいは死後の世界を認めない人もいるのにです。
葬儀は、単に、死者の肉体に別れを告げるわけではありません。死者生前の生き方,信条、つまり全人格に別れを告げるのです。それを政教分離の原則の元、無宗教の葬儀を行おうとするのです。死者に対して非礼に当たるとは思いませんか。
昭和帝の大葬に際しても、同じような感情を抱きました。政府主催の故に、宗教色を無くそうとして、神道色が濃厚なのにもかかわらず、政府主催の部分を無宗教にして、木に竹を接ぐ様な感じを受けました。法律的には正しかったのでしょうが、困難な生涯を送られた昭和天皇への尊敬が欠けていると思えました。
問題は、政府が喪主となることにあります。遺族が喪主となれば、遺族がどんな特殊な宗教に葬儀を依頼しても問題となりません。憲法は個人の信教の自由を保障しています。国は法律を定め、政府は法律に従い、遺族に弔慰金を支払い、遺族はそれを自由に使うことができるようにしたらどうでしょう。勿論、故人の信仰に基づく葬儀であることが第一です。法律はまた、故人の貢献に従い、葬儀に必要な手伝いの人間を派遣できることも決めておくべきでしょう。時の政府の恣意的な運用を避けるために、両院それぞれの3分の2の同意を得るのが妥当でしょう。
国葬に限らず、国が人を顕彰する基準を作るのには難しいものがあります。例えば、国民栄誉賞の選考には、おやと思うこともあります。ただ、おめでたいことなので、ケチをつけるのを避けているようにも見えます。
国葬法を定めようとすれば、激しい議論は避けようがありません。しかし、議論を避けて、その場その場で判断するのでは、国の信頼度が下がるのではないでしょうか。
石川恒彦