表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > パラリンピック(令和3年9月)
私は、子供のころ、結核性膝関節炎に罹りました。当時、海外では治療法が確立していたそうですが、第二次世界大戦中のことで、薬はおろか治療法の情報もなかったそうです。唯一の治療法は固定術で、以来、私の右ひざ関節は曲がりません。
友達に恵まれたせいか、子供のころは、あまり障害を意識しませんでした。一番下手でしたが、野球や相撲の仲間に入れてもらえましたし、焼け跡を駆け回って、かくれんぼや鬼ごっこも楽しみました。
仲間に入れなかったのは、水泳と自転車でした。
周りの大人が、よくプールや海に連れて行ってくれたので、水とは親しみました。しかし、泳ぐとなると、駄目でした。懸命に手をかいて、5メートルぐらいは進むのですが、どうしても、脚が下にもぐって、それから先は進めませんでした。
自転車も頑張ったのですが乗れるようになりませんでした。
ガキ大将が自転車を貸してくれ、サドルにまたがって、足で地を蹴って前に進むことはできるようになりました。しかし左足をペダルにのせてこぎだすと、右足が右のペダルに当たって、進めませんでした。右足を前にあげたり、横に開いたりしてみましたが、バランスをとれませんでした。
パラリンピックの中継を見ていると、両足が半分で切断、片手の選手が泳いでいました。やればできるんだと思い知らされました。
実は、子供ができて、プールや海に連れて行くようになったとき、親が泳げなければ、万が一の時に助けられないと、東京都が開いた、障害者水泳教室に通ったことがあります。たしか週一回、六週間の教室でした。初日は、顔を水につける程度で、次回からは本格的に教えてもらえるはずでした。ところが予定の日に仕事があって、二回目三回目は休んでしまいました。そうなると四回目は行く気になれず、それっきりになってしまったことがあります。今になって、後悔しきりです。
自転車競技にもびっくりしました。片足の人が猛スピードで走っていました。それを見て、ヒントを得ました。邪魔な右足に当たらないように、右ペダルを外すか空回りするようにすれば良かったのだと。もっとも、私の子供ころは、まだ自転車は貴重品で、子供のためにそんな特別な仕様車が手に入ったかわかりませんが。
パラリンピックは、純粋に競技として楽しめます。それをテレビのアナウンサーや解説者が、ときに、ことさらに同情的な口調で、競技者を称賛するのには、障害者のはしくれとして、違和感を覚えます。
とはいえ、パラリンピックには、家にこもりがちな障害者に、だれでもスポーツを楽しめるのだと啓発する大きな力があると思えます。また世間の人も、障害者はそれぞれの形でスポーツを楽しんでいるのだという理解が進むと思います。
子供のころ、内野を守って、ゴロを取ろうとするとき、バランスをとるため手足をバタバタさせて走りました。その姿を見た中学生が私に「水泳」というあだ名をつけました。ずいぶん傷ついたものです。
必要なのは、同情でも軽蔑でもなく、理解です。
石川恒彦