表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > おふくろの味(令和元年9月)
いつだったか兄弟が集まった時、うちのおふくろの味は何だろうという話になりました。誰も思い出せませんでした。晩年の母は料理嫌いを公言していました。それに、戦後のふかし芋でおなかをいっぱいにしていた時代から、和風洋風の食材が豊富に現れ、多種多様な食事が楽しめるようになり、母の料理の内容も変わって、これがおふくろの味というものが思いつかなくなったのかもしれません。
それにしても、弁当は悲惨でした。白米の真ん中に梅干しを押し込んだ、日の丸弁当が基本で、塩昆布と沢庵がついていました。時々それに、海苔が敷いてあったり、炒り卵がかけてあったり、塩じゃけの切り身が乗っていたりしました。
ウインナーソーセージが出回るようになると、ウインナが弁当に入ることもありました。ただし、一本そのままご飯に載っているだけで、近ごろの親がやるような、タコのかたちに包丁を入れるなど無縁でした。
「読む寿司」(河原一久)という本を読みました。
江戸の終わりに握りずしが生まれてから、職人たちがどういう工夫と努力を重ねて、今見る握りずしができたのか、蘊蓄を傾けた本です。寿司の名人、革命児の話とともに、老舗、名店、高級店の名前が次々に出てきますが、残念ながら、どの店にも行ったことがないのに気がつきました。
助六寿司の話になった時、母の味を思い出しました。握り寿司ではありません。助六寿司は、歌舞伎の升席に届く、稲荷ずしと干瓢巻を言うそうです。
母の稲荷ずしは、ごく単純で、半分に切った油揚げにご飯を入れただけです。油揚げは、恐らく、醤油(母は、お下地=おしたじ、といっていました)と味醂で味をつけたのだと思います。油揚げという名前なのに、すっかり油気が抜けていました。油揚げにしみ込んだ出汁の味が、ほのかにご飯に移って、おいしいものでした。大人になって、稲荷ずしをあちこちで食べましたが、どれも母の味には届きません。
母は、時々、海苔巻きも作ってくれました。巻きすに半分に切った海苔、ご飯、干瓢をのせ、巻きすを巻いて海苔巻きを作りました。ご飯は酢飯ではなく普通のご飯でした。母は干瓢が好きだったらしく、戸棚にいつもありました。それを戻して、薄く味付けをし、干瓢巻きを作っていました。母の味の干瓢に他所でお目にかかったことはありません。
ちらし寿司も思い出します。夕方、庭で遊んでいると「つねしこ」と呼ばれます。台所に行くと、寿司桶、片口に入った酸っぱい液、お釜のご飯、団扇が用意されています。母がご飯を寿司桶に入れて、かき混ぜるとき、団扇で煽ぐのが私の仕事でした。
あるとき料理自慢の坊さんが来ました。母が薄焼き卵がうまく焼けないとこぼすと、坊さんは台所に立ち、卵を焼き、千切りにしました。それを母の用意したちらし寿司にかけました。坊さんが帰った後、私が、きれいな卵だったね、というと、あんなに油を使って、寿司の味が滅茶苦茶だったと不満げでした。母の味は淡白な味でした。
母の作る稲荷、干瓢巻き、ちらし。懐かしく思い出しました。
石川恒彦