表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > 日奥上人(令和元年6月)
対馬へ行ってきました。はじめは、純粋な観光旅行の予定でしたが、出発間際に、対馬は仏性院日奥上人が、徳川家康により、13年間流された島だと気がつきました。
日蓮聖人が活躍された鎌倉時代には、鎌倉の幕府と京都の朝廷が、権力を二分していました。日蓮聖人は、主に関東で布教に努めましたので、京都方面には、影響を及ぼすことはできませんでした。聖人は、京都での布教に努めるよう弟子たちに訓戒して亡くなりました。
そこで、志ある門弟たちが、次々と京都に向かい、戦国時代の始まるころには、21を数える本山を持つようになりました。しかし、それは旧仏教側にとっては、耐えられないことでした。いろいろ口実を設けて、日蓮宗を圧迫するようになりました。
天文5年(1536)、結末を迎えました。比叡山の僧兵に率いられた軍勢に、21本山は焼失し、僧俗は京都を追われました。日蓮宗徒は、怯みませんでした。強い信仰心を持ち続け、数年を経ずして、帰洛の勅許を得、徐々に京都に本山を復興させていきました。21の本山のうち15の本山の再建に成功しました。それを支えたのが、不受不施の精神でした。信仰の違うものからは施しを受けない、信仰の違うもののために祈らない。独立自尊の精神が不受不施でした。
一面、不受不施を通せたのは、戦国時代という、権力が分散している時代だからでした。天下が統一され、すべての権力が一人の手に握られたとき、危機が訪れました。はじめは、秀吉による、方広寺千僧供養でした。方広寺を建てた秀吉は、自分の先祖のために大法会を催すことを志し、各宗に千名の僧を出仕させるように命じました。
不受不施を奉じる日蓮宗にとっては大問題でした。もし出仕すれば、題目を信じない秀吉のために祈ることになります。食事を出されてそれを食べれば、他宗の人から施しを受けたことになります。洛中の日蓮宗本山は寄り合いを持ち、相談しました。当初は、出仕拒否が優勢を占めていましたが、やがて、時代の変化を認識し、大勢は出仕に傾いていきました。
それに断固反対したのが、日奥上人でした。28歳で妙覚寺の貫首に推されたという、学徳すぐれた僧でしたので、従うものも少なくありませんでした。秀吉が死に、天下は家康のものとなりましたが、家康もまた、寺社を支配下に置こうという考えに違いはありませんでした。家康は、寛大な条件で、まだ続いていた千僧供養に参加するよう、日奥上人の説得を試みましたが、上人の容れるところとはなりませんでした。上人を対馬に流しました。
対馬の国昌寺は、小高い丘の中腹にあります。境内に入ると、左手に日奥上人の供養塔があります。本堂に上がると、住職が、日奥上人の揮毫した、ご本尊を拝ませてくださいました。慶長8年対馬の宮谷で、清水佑朝のために書いたものでした。
宮谷は、武家屋敷地区でした。狭いまっすぐな道を上っていくと、開けた草地があり、そこが日奥上人の草庵だったことを示す石碑が立っていました。場所から考えると、上人を預かった対馬藩は、上人を粗末に扱ったとは思えませんでした。
対馬は海岸線のきれいな島です。日奥上人に、果たして、その景色を楽しむ日はあったのでしょうか。
石川恒彦