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隠居からの手紙

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旅先で、ある老人と二人だけで、数時間を過ごしたことがあります。頑固で、わがまま、その上怒りっぽい方なので、できれば避けたかったのですが、どうしても二人で一緒にいなければならなくなりました。

  きっかけは忘れましたが、老人は、突然、母親の話を始めました。「私は父親の名前も知りません。母親は、一度だけ見たことがあります。実は私の母親は大店の娘で、丁稚と誤って、子供を作ってしまいました。母親の両親は、私が生まれるとすぐに、子供のいない出入りの職人に、なにがしかの養育費を付けて、私を渡し、戸籍上も実子として育てさせたようです。その職人夫婦を自分の親と疑わずに育ったのですが、私の兵隊検査のとき、血がつながっていないことだけを教えてくれました。驚いた私は、八方駆け回り、ようよう、母親の素性と居所を突き止めました。

  母親は、大きな屋敷の奥様になっていました。どうしたらいいのか判らないので、屋敷の前にじっと立っていると、きちんとした身なりの婦人が出てきました。すぐに自分の母親だと判りました。

  しかし、住職、小説とは違いますよ。どうしても足も口も動かず、じっと見つめている間に、婦人は遠くへ行ってしまいました。それからも何度も名乗り出ようとしたのですが、そのたびに出かける勇気がわかず、とうとうこの年になってしまいました。もうとっくに死んでしまったでしょうが、今になるとこれが私にできた、ただ一つの親孝行だったと思います。

  私の人生はどちらかといえば苦労続きでした。それでもこうやって、人間として一生を過ごせたのは、母親が私を生んでくれたからです。母親には恩があるんです。あのとき私が飛び出していたら、せっかく新規まき直しの生活を築いていた、母親を過去に引き戻して、どんな悲劇となったか判りません。

  あの日の母親は本当に幸せそうでした。幸せな母親しか知らない息子はそんなにいませんよ。」   老人の顔からは気難しさは消え、まるで仏さまのようでした。

平成16年8月
石川恒彦

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